2024年10月27日日曜日

「悔い改めと恵み」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・宗教改革記念礼拝(2024年10月27日)(赤)

ヨハネの黙示録 14章6-7節(468) 

ローマの信徒への手紙 3章19-28節(277)

ヨハネによる福音書 8章31-36節(182)


 キリスト教は歴史の中で一般人には理解できないような神秘的な方向に向かった時もありますが、元々は人々の不安に寄り添い、どのような人にもわかりやすくなるよう語り、やがて聖書が生まれてきました。


 しかし、次第にこういう場合にはこう答えるべき、というパターンが生み出されます。定型的な答えから脱線することは神様の御心ではない、と指導され、正解だけを教え込まれます。信徒達は聖書を読まなくても答えを知っていることになります。この繰り返しによってキリスト教を信じる人々から自分で考えることを奪い取り、思考停止に追い込んでいくのです。


 子ども達への教育も、まるで誘導尋問のように「神様は守ってくださいます」「神様は許してくださいます」「神様は全てを知っておられます」と教え、本来真理であるこれらのことが、本心から信じないまま、教え込まれたことだけを語らせ、薄っぺらな信仰者を生み出してしまい、自分も周りの人も次第に信仰が薄くなり、イエス様に倣って生きる本当の意味など、全くわからなくなってしまったのです。


 さて、本日読みました聖書の箇所は、宗教改革記念を覚えて選ばれています。「真理はあなたがたを自由にする」という御言葉から、「真理とは何か」という説教が良く語られるところです。


 聖書が教える「真理」とは「イエス・キリストを信じることこそが唯一の救いであり、他のことでは誰も救われることはない」という意味です。クリスチャンはそれを信じて洗礼を受け、信仰生活をしているはずなのですが、それを信じない人々や拒否する人々に囲まれて生活する時、心がぐらつくことが多くあると思います。


 本日の福音書は「イエス様は、ご自分を信じたユダヤ人に言われた。」と書き出しています。ここに登場するユダヤ人達は、イエス様の他の弟子達のように、その御教えと言葉に救いがあると信じたようでした。その様子を見ると、イエス様に対する信仰が確立したかのように思えました。が、彼らには大きな問題があったのです。それは、イエス様の弟子達とは決定的に違う問題でした。


 このユダヤ人達は、イエス様を信じると言いつつ、もう一つの信仰、つまり先祖から受け継いできたユダヤ教という信仰を手放そうとはしなかったのです。神様はご自身は従来のユダヤ教ではもはや人は救えない、と思われたからこそ、前もって約束しておいた神の御子・イエス様を地上に送られたのですが、このユダヤ人たちは神様の預言を素直に受け入れることができませんでした。


 イエス様を信じてはいるけれど、今まで信仰の対象としてきたものも信じ続けて何が悪い?と言う態度です。彼らはそれを全く無意識の内に行っていたので、イエス様の指摘がなければ、自分の矛盾に気づかなかったです。おもいっきり俗な言葉で言えば、彼らは神様に対して無意識に二股をかけていた、ということになるかも知れません。


 そんな彼らにイエス様は「真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃいました。大切なポイントですが、何が真理であるかを知ることによって、自分自身がどう生きるべきかが見えてきます。今何が自分を縛りつけていて、本来こうありたいという自分になれないのか、きちんと知ることで、他の人が解放されていく手助けをすることができます。


 イエス様は、「私こそあなた方を救い、あなた方を自由にするためにこの世に生まれた、神の子イエス・キリストである。あなた方はそれを信じなさい」と呼びかけられたのです。


 しかし、ユダヤ人達はこのお言葉に逆らいました。「わたしたちが今、生きているのは先祖のおかげであり、神様に選ばれ愛されたアブラハムの子孫なのですから、あえてあなたから自由にしていただく必要はごさいません」と答えたのです。


 今の自分があるのは、ご先祖様がいたから、という考え方は日本人も含め、どの民族にもあります。もちろん先祖を敬うことは大切ですが、神格化して、ご先祖は神様と対等、あるいは神様よりも偉い、と感じているとしたら、神様が尊いご計画を持ってイエス様を地上に送られたことを否定したことになります。イエス様こそ唯一の救い、と口では言いながら、心の中ではすり替えが起きているのです。


 信仰というものは、誰かに問われたとき「これは先祖の教えだから大事にしているのです」と言えば反論されることも少なく、説明も楽かも知れません。しかし、そこには自分の頭と心で自分が何を、もっと言い換えればどなたを信仰しているのかを信仰を見失う危険があり、悪魔の策略ともいうべきものがあることを聖書は示しているのです。


 私たちは自分の生涯をかけてイエス様を信じきるほど強い心をもっていないかも知れません。しかしイエス様は私たちの弱さを知った上で、31節にあるように「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子なのである」とおっしゃいます。イエス様の言葉、聖書に刻まれた御言葉に「とどまる」努力をすることを、イエス様はご自分を信じる人々に求められたのです。


 この「留まる」という言葉は、ヨハネによる福音書で40回使われており、重要な意味が込められています。この世においてキリストの言葉を守っていくことがどれほど大変であるかをご存知の上で、イエスという神の子と人格的なふれあい続けることを望まれたのです。キリスト者としてその教えを守る努力をしても、うまく守れなかったら、素直にごめんなさいと涙してお詫びしてやり直す、そのような、愛のある会話をイエス様は求めてられるのです。

11月の土曜学校は上記のように幼稚園の遊戯室で行われます
場所の都合上、どちらかという幼稚園の行事となります
日曜日にバンド練習を行なっているお友達は
17日にそのまま主日礼拝に出席して賛美してもらい
一緒に祝福に預かる予定です

2024年10月20日日曜日

「キリストの栄光」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第21主日礼拝(2024年10月20日)(緑)

イザヤ書 53章4-12節(1149) 

ヘブライ人への手紙 5章1-10節(405)

マルコによる福音書 10章35-45節(82)


 本日の福音書は、イエス様が十字架にかかるために決心を固くしてエルサレムを目指しておられる途中の出来事なのですが、今までイエス様に従ってきた人々は、すっかり勘違いして、イエス様が間も無く世直しのための王様になられる、そのために都へ行くのだ、とワクワクしていました。


 12弟子のゼベダイの子ヤコブとその弟ヨハネは、特にその思いが強かったようで、エルサレムに近づけば近づくほど、「イエス様が王様になったら自分も高い地位に着きたい」と願い、「今のうちにイエス様に大臣にしていただけるよう約束していただこう」と焦り始めました。


 彼らは3年間寝食を共にしながら、イエス様がもうすぐ十字架にかかられるという土壇場に来てもまだ神様のご計画を理解できていないのです。イエス様は彼らが正しく成長するためにもう一度考えさせる必要がある、と思われたことでしょう。


 日々、神様に導かれ、誠実にイエス様に従って歩んでき人が、突如として社会の表舞台に引っ張り出されたり、名声や富を手にするチャンスが目の前に現れたら、どうなるでしょうか。神の国こそ自分の目指している国だ、と信じて信仰生活を送っていたはずなのに、権力を手にしてしまったばかりにいつまでも自分の思い通りになる、そんな国を望むようにならないでしょうか。


 そのためなら神様の御心から背いて、罪にまみれてもなんとも思わなくなる。権力や名声を手に入れたばかりに、そんな罪人になってしまう。人間はそのような恐ろしい独裁者になる可能性を持っているのです。


 実は、聖書という書物は、そんな人々の罪について、残酷なほどはっきりと記録しています。もし、長年聖書を読んでいながら聖書が理解できない、分からないというならば、その原因は聖書には人間の罪が記されていることを認めようとしないことにあります。そして何より自分の罪を認めないことが大きな原因なのです。


 さて、お話を福音書に戻しましょう。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、イエス様の弟子の間の中ではNo.2的な存在でした。No.1は弟子のリーダー格のペトロだと、誰もが思うところです。しかしこの時、ヤコブとヨハネはそのペトロを出し抜こうとしました。ヤコブとヨハネはこう言いました。「イエス様が栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。こつまり「イエス様がイスラエルの王様になる時、自分も高い地位に着きたい」「イエス様の最も重要な大臣に任命していただきたい」という意味でした。


 これにより、彼らは「イエス様が栄光をお受けになるとき」が何を意味しているのかまるでわかっていなかった、つまりイエス様が十字架にかかって死ぬことで、神様のご計画が完成する、そのことをまるで理解していなかったことがことがはっきりするのです。


 本日の旧約聖書「イザヤ書」にはイエス様がお生まれになった目的は、人間の罪の身代わりとして命を差し出し、神様に人間を赦していただくことだと、はっきり記されています。そして新約聖書のヘブライ書では、それこそがイエス様がお受けになる栄光なのだと記しています。


 しかしこの時、他の弟子たちもイエス様の目的を全く理解していませんでした。誰も理解しないままヤコブとヨハネの出過ぎたお願いに腹を立てたのです。弟子たちは自分達がイエス様からどれほど大切にされ、愛されているか気づかないまま、利益だけ得たいという低俗な人物になり成り下がってしまい、この小さい群れの中で、心の中に秘めていた欲望を表に表して仲違いを始めたのです。


 しかし、それはイエス様にとっては説教の機会でもありました。イエス様は今までも忍耐強く、何度も何度も弟子たちに神様のご計画を話されました。今理解できなくても、復活して再会した時にそれを受け入れやすくするために、イエス様は語り続けられたのです。弟子たちの理解が鈍く、何度も語る機会があったからこそ、そのお言葉は繰り返し聖書に刻まれ、のちの時代のわたしたちも、何度も何度もイエス様のお覚悟を噛み締めながら聖書を読むことができるようになったのです。


 そしてイエス様は、弟子たちに「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼、洗礼・バプテスマを受けることができるか」と問いかけられます。弟子たちは深く考えもせず「できます」と即答しますが、私たちはこの御言葉にどう答えるでしょう。「信者になるために洗礼は受けましたし、特別用事がない時は礼拝に来ますし、儀式として聖餐式にはできるだけ参加しています」そう答えるだけなら、イエス様はきっと淋しい顔をなさることでしょう。


 イエス様は十字架にかかる直前に弟子たちと共にパンを裂き、聖餐式を行うよう教えました。そして初代教会の人々がイエス様を覚え、聖霊の働きを感じ、宣教の歩みをしていく時に「一緒にパンを食べる」ことを大切にしました。ですから以来2000年にわたって、教会ではパンを一緒に食べる仲間同志、自分の社会的立場や権力で仲間を苦しめるとこはしないで、共に仕え、共に歩むよう努力を重ねてきたのです。


 本日の福音書で「偉くなりたい者」は「皆に仕え、僕となるように」と書かれています。それは「弱い者」が自分を守るために「強い者」を利用しようとするのでもなく、「強い者」が「弱い者」を排除するのでもなく、ただ互いに与えられている賜物を用いて「仕える者」になり、イエス様に喜こんでもらうように、ということなのです。


昨日は久しぶりの土曜学校でした

今は工事期間のため

幼稚園の新園舎の遊戯室をお借りして行いました


聖句「成長させてくださったのは神です」をテーマにして

紙芝居「幸せの王子」の台本を

大幅に書き換えて演じました

ちょっと長かったのですが

最後まで集中して聞いてくれました


工作は色画用紙を使って

可愛い気球を作ってみました

少し手こずったところもありましたが

なんとかみんな完成させることができました


来月も第3土曜日に実施する予定です


広々とした遊戯室
椅子や机もお借りしましたが
小学生高学年には小さすぎて
床に体育館座り中(^^;)

制作見本を撮影し忘れたので
K君に完成作品を持ってモデルになってもらいました


2024年10月13日日曜日

「主イエスのまなざし」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第21主日礼拝(2024年10月13日)(緑)

詩編 90編12-17節(929) 

ヘブライ人への手紙 4章12-16節(405)

マルコによる福音書 10章17-31節(81)


 本日読みました福音書には「たくさんの財産を持っている」人物が登場します。良い家柄に生まれ、しっかりと宗教教育を受け、教養もあり上品で、親の財産を上手に運用し、健康にも恵まれた人物像のようです。


 一般民衆がローマに支配されて、その日その日を生きるだけで精一杯な時代、彼は経済的に恵まれ、学問に打ち込む時間も十分あったため、永遠の命について思い巡らし、このまま死んだらどうなるのか、と思い煩う時間も十分にあったのでしょう。


 彼はうやうやしく膝まづいて、イエス様のことを「善き先生」と呼びかけます。しかしこの「良き」という言葉は「尊き」という意味に使われており、相手に対して「親切な」とか「恵み深い」というような、血の通った人格的な交流があって初めて相手の「尊さ」に気づく、といった言葉です。初対面の相手にいきなり「尊い」と使うのはむしろ何か馬鹿にしているような、ちょっと失礼な感じが漂うのです。ですからイエス様は「善い先生」と呼ばれることを拒絶なさったようです。


 と言ってもこの金持ちはイエス様をからかうつもりなど毛頭なく、自分の努力を有名な先生であるイエス様に認めてほしいと真剣に思っていたようです。彼は律法を守り、まっすぐ人生を歩んできたという自負がありました。しかしどこまでやっても確信がありません。彼にとっての神様のイメージが、厳しいだけの頑固親父か血も涙もない裁判官のようで、毎日毎日必死で努力して、これでどうでしょう、まだ足りませんか、ではこれでどうでしょう、と顔色を伺うばかりだったからです。


 そんな彼に向かってイエス様は、「神様はアバ父よ、と呼ばれることを喜ぶ方でなのだ、あなたは肝心なその点を見失っていないか」と言われたのです。イエス様に向かって「善い方」と言う前に、神様ご自身に「私の善い神様」と呼びかけることから、もう一度やり直しなさい、と示されたのです。


 その上で「あなたの財産を貧しいものに分けてあげたらどうか」と言われたのです。イエス様は厳しい表情で、何かを宣告するようにおっしゃったのではなく、彼に向かっていつくしみの目を注がれながら語られたことが記されています。イエス様が優しい目を彼に注がれたということは、その向こう側にいる神様も彼を優しく見つめていたはずです。神様は彼が今まで必死でやってきたことを「そんなこと無駄だ」と切り捨てたりはなさいません。ただ、その方向を修正し、その情熱でご自分を信頼してほしいと願われたのです。


 ですからイエス様は、今持っているもの全てを失っても、神様自身が守り、導き、育ててくださるから、それ以外のものに頼ることをやめ、たとえすっからかんになっても神様が守ってくださると信じ切る努力をしなさい、その信仰を養いなさい、と言われたのでした。


 しかし彼は財産を他人に施して神様の腕の中に飛び込むことはできませんでした。莫大な財産が彼の足枷となり、せっかく天国の入り口まで辿り着きながら、今までの生き方から抜け出すことが出来ず、引き返す羽目になってしまったのです。なんと悲しいことなのでしょう。天国にはこの世のものは何一つ持っていけないのに、財産に執着したために、最も欲しいものを手に入れそびれてしまったのです。


 悲しみながら立ち去る彼の後ろ姿をご覧になったイエス様は「金持ちが神の国に入るよりらくだが針の穴を通る方が簡単だ」と言われます。


 これを聞いた弟子たちも、そして私たちも、それでは誰一人として神様の国に行けないじゃないか、と思ってしまいます。しかしイエス様がよく例えを用いられることを考えますと、ここにはちょっと別の解釈の仕方もあるようです。


 かつてイスラエルはどの町も城壁に囲まれてました。一説によるとエリコの街の城門には「針の穴」と呼ばれる小さな通用門があったそうです。ラクダに商品を満載にしてにやってきた旅人が、街に入るには、ラクダから荷物を降ろし、ラクダも旅人もひざまずくようにして通らなければならなかったのだそうです。


 旅人にとっては難儀なことですが、長い旅をしてきたラクダにとっては、やっと重い荷物を下ろせる場所にたどり着いたわけです。ラクダは大喜びで荷物を振り落とそうとします。どんなに貴重なものであろうとお構いなしです。


 もしこの説が本当ならば、イエス様は私たちに単なる無理難題をおっしゃっているのではなく、神様の前に謙虚であることをラクダを通して教えておられると言えるでしょう。本気でその門をくぐろうとするとき、神様とイエス様の前にひざまづき、「この世の宝を捨てても神の国に入る方が良い」と考えるあなたを神様が導いてくださる、とイエス様は教えられたのです。


 そうはいってもなあ、と私たちは思うでしょう。この世を生きていくためにはお金も必要で、簡単にすっからかんになれる訳でもありません。ただ、そんなことはイエス様は百もご承知なのです。それでもイエス様はあなたにとって一番大切なものは何か?と問いかけられます。私たちがいざという時、最も大切なものとしてイエス様を選ぶ人間かどうか見抜いておられます。その上で、私たちがどのような人間であっても、ご自分の招きに従おうとする人々を切り捨てたりはなさいません。


 イエス様が私たちに眼差しを向けられるとき、その眼差しは暖かく、「この人の信仰は100点満点の何点か」などと値踏みされるようなことはないのです。最期の時を迎えたなら、私のものは全て神様のものと宣言して堂々と天国の門をくぐる、そんな人生を送りたいと思うのです。


第1土曜日に行ってきた土曜学校
今月は遅ればせながら第3週に行います
礼拝堂がリノベーション準備に入ったため
新しい園舎の一角をお借りしての実施です
園内もまだまだ片付いたとは言い難い状況なので
この日参加するお友達があちこち自由に
探検するわけにはいきません
お越しになる方はなるべく時間通りに
お集まりくださいね

2024年10月6日日曜日

「律法と幼心」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第20主日礼拝(2024年10月6日)(緑)

創世記 2章18-24節(3) 

ヘブライ人への手紙 1章1-4節(401)

マルコによる福音書 10章2-16節(81)


 今度の土曜日は、姪っ子の結婚式の司式を行うことになり、八王子方面まで行って参ります。彼女は姉の一人娘で、物心ついた時からこの30年「おじさん」と呼ばれることなく、姉とよく似た顔で、姉と同じように晴朗君と呼ぶのです。全く親の顔が見てみたいと思ったりします。


 夫婦の関係で支え合う仲を表現する時、「共に軛を負う」という表現が良いと思います。「くびき」とは、本日の週報の表紙の写真にあるように、牛や馬を使って耕運作業や車輌の牽引などをする時、うまく車を引っ張れるように、首を挟む横木のことです。


 新郎新婦を牛や馬に例えるなんて失礼な、と思うかもしれませんが、一緒に軛に繋がれている時、引っ張っているものの重さばかり気にするのではなく、夫婦として同じ目的を持って足並みを揃えて歩んでいることを喜びとしなさい、というのがイエス様の教えです。


 また、ここに記されている「休ませてあげよう」というイエス様の御言葉は「爽快である」という意味に取れるそうです。同じ軛に繋がれていることを不自由と感じるよりも、互いに認め合って同じ方向に向かって人生を歩んでいくなら、どれほど大変な道でも爽快に歩んでいくことができる、という意味に理解できます。


 ところで、本日の聖書箇所は、結婚式ではなく離婚のお話です。ファリサイ派の人々がイエス様に向かって「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」と尋ねますが、彼らは申命記24章に、夫から妻に離縁状を渡すことは可能と書かれていることをちゃんと知っていて、イエス様の揚げ足を取ろうと待ち構えていたのです。


 申命記には、離婚の理由に「妻の側に恥ずべきことがある場合」と規定されています。こんな抽象的な書き方では、男性が何がなんでも離婚したいと思った時には、何にでも難癖をつけ、「これは恥ずべきことだ」と言って離婚を押し通すことが可能です。


 しかしイエス様は神様がそのような男の身勝手のために結婚の仕組みや律法を定めたのではない、と、神様の願いを深く知ろうともしない人々に憤りさえ覚えながら、夫婦は共にくびきを担う存在として神が結び合わせてくださったものである、だから人は自分の身勝手で離してはならない」とおっしゃったのです。


 ちょっとテーマは外れるかもしれませんが、この軛の例えは、結婚に限らず、同じ働きをする仲間との関係においても言えることです。神様から与えられた使命を共に担う仲間と、同じ軛を負うという覚悟は、私たちの人生を縛り付けるのではなく、豊かにするのだ、とイエス様のお話から理解することができるのです。


 この時期、イエス様はいよいよエルサレムに、十字架の死に向かおうとしておられました。そんな時、次々と、結婚、子ども、財産について質問してくる人が現れます。これらは私たちにとって日常と切り離せない関心事です。問題を先送りにしているといよいよ手遅れになって後悔をします。ですからどんな些細な悩みでも、イエス様の御言葉に当てはめて考え、目覚めている必要があるのです。


 10章の初めには、イエス様が「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側」におられると書かれていますが、これはユダヤからヨルダン川を越えた辺りと翻訳できるそうです。イエス様の弟子達、つまりエジプトから逃れてイスラエルにやってきたユダヤの民にとっては、ヨルダン川を越えるということは、新しい土地に入るとか、新しい次元に入るという意味が感じられる表現だそうです。


 「ヨルダン川を超える」という言葉に込められたメッセージは、「ここまで聖書を読み進めてきたあなたは、今までの常識から離れて、イエス・キリストへの信仰によって日常生活に起こるトラブルを乗り越えていきなさい」と読み取ることができるのです。


 最後に、イエス様が離縁についてファリサイ人たちを論破した後、人々が自分の子どもをイエス様に祝福していただこうと連れてきたところを見ておきましょう。ここには「弟子たちはこの人々を叱った」と記されています。ところがイエス様は逆に弟子たちを叱って「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいます。


 イエス様が幼子を大切になさったのは、単に子ども好きだから、というわけではありません。幼子が自分の両親に愛され守られていることを疑わないように神様に信頼し、愛と感謝を持ち、神様から悔い改めを促されたときにはちゃんと「ごめんなさい」が言える、そのような心を大人になっても持ち続けることの大切さを示されたのです。


 私たちはイエス様を信じる群れとして、神様から共に負うように、一つ軛に繋がれています。それを嫌がって強引に振り落とそうとするのではなく、共に担っていく覚悟を決めるとき、そこにはイエス様も共にいて、同じ目的地まで共に担っていけるのだ。そう子どものようにシンプルに信じることを、イエス様は喜んでくださいます。


 私たちは失敗も欠点も多く、時に神様を裏切り、悲しませる者たちです。しかしイエス様は、そして神様は、何度裏切られても愛情深く、忍耐強く、人間を見守り、道をはずれそうな私たちに向かって、解放の為に共に重荷を負って進むから、と言ってくださいます。その愛と忍耐に応えて共に祈り、軛が軽いことを信じて歩んでまいりましょう。


引越し先の古民家の庭の隅に
こんな植物が生えていました
最初はミョウガだと思っていたのですが
やがてシュルシュルとのびて
ミョウガとは似ても似つかぬ花が咲きました
どうやら「ヤブミョウガ」のようです
成長して特徴が見えてきて何者か分かってくる
興味深いです