2026年5月24日日曜日

「聖なる人々」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨祭(2026年5月24日)(赤)

使徒言行録 2:1~21(新214)  1コリント 12:3b~13(新315)

ヨハネによる福音書 20:19~23(新210)


 今日は聖霊降臨祭、イエス様が復活されたイースターから50日目にあたります。イエス様が天にお帰りになる時、ご自分を信じる者たちのために聖霊なる神が来られると約束して下さり、その通りになったことをお祝いする日です。


 私たちがこの会堂で再び礼拝するようになっておおよそ1年が経過しました。仮住まいを終えて昨年の6月1日、新しく整えられた会堂に足を踏み入れたときの喜びを、心のうちに蘇らせてください。


 この1年、私たちはこの場所で祈り、賛美し、笑い、信仰の友を天に送って涙し、少しずつ“学び”を積み重ねてきました。建物が新しくなっただけでは、教会は新しくなりません。そこに集う人々が聖霊によって新しくされるとき、教会は本当に新しくなる。そのことを、今日のペンテコステの御言葉は私たちに語っています。


 改めて、聖書からペンテコステの日に何が起こったのか見ますと、聖霊が降ったとき、人々は「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉で神様の証を聞くのか」聞くだろうか」と驚いています。


 ペンテコステが起きた時、エルサレムは五旬祭で賑わっており、さまざまな国や地方から人々が集まっていました。イエス様の時代のイスラエルでは、大きく分けてアラム語、ヘブル語、ギリシャ語が話されていましたが、ユダヤにルーツを持つ人々は、三つの言語のどれかを話すことができたでしょう。


 しかしよその国で育った人々には母国語がありますから、アラム語もヘブル語もギリシャ語も「とりあえず話せる」とか「一応聞き取れる」と言ったレベルでしょう。これではなかなか深い交流は得られないものです。ですから、ペンテコステの日、聖霊なる神が、イエス様の弟子たちに真っ先に与えた力が、外国語を聞き、話せる能力だった、というのは、単なる“言語の奇跡”ではないのです。聖霊は人々がイエス様を理解できるよう導き、共同体をつくり上げるためにこの力をくださったのです。


 聖霊の働きはまだまだあります。先ほど読んでいただいたコリントの手紙一の12章には「聖霊によらなければ『イエスは主である』と言えない」と記されています。自分の母国語でイエス様の素晴らしさを聞いても、それだけでは信じるには至りません。信じさせてくださる神の霊がおられて初めて信じることができるのです。


 ですから「自分の意志や理解力で、イエス様を信じた」と思うことは勘違いで、聖霊が、私たちに“聞いて学ぶ心”を与えて下さったからこそ、イエス様を信じることができ、それをみんなの前で告白して、初めて新しく歩み始めるのです。


 人は歳を重ねたからといって自動的に良い人になれるわけではありません。さまざまな体験を通して性格が形作られ、最後に神の息を受けて本質的に変わるのです。それが良くわかるのが本日読みましたヨハネ福音書20章です。イエス様の弟子たちは、さまざまな生育歴を持った人々の集まりですが、イエス様の弟子に招かれた時、自分はひとかどの人物になったと思ったことでしょう。しかしイエス様が十字架にかけられるとすぐさま絶望して逃げ出し、隠れ家に閉じこもったのです。そして他の弟子から復活の知らせを聞かされても、すぐには信じられませんでした。


 彼らは「恐れのために家の戸を閉めて」隠れていたのです。弟子たちは勝手に成長したわけではありません。自分の力で信仰を深めたわけでもありません。むしろ、恐れ、迷い、立ち止まっていた人々でした。


 しかし復活したイエス様は怯えている弟子たちの隠れ家に来られて息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われました。その光景は神様が最初の人アダムを造られたときに命の息を吹き込まれた時のようです。弟子たちはイエス様から聖霊の力をいただくことで“新しく生きる者”に造り変えられたのです。


 少し脱線しますが、教会のことを英語では「チャーチ」と言いますね。チャーチは元々ギリシア語のkyriakon(クリアコン)という言葉で「主の家」という意味があります。詩編23編の「主の家に、私は帰り」という言葉は直訳すると「教会に私は帰り」という意味になります。


 日本語の「教会」は、中国語の「教会」をそのまま使った言葉です。元となった中国語でキリスト者の集まりを「教会」と呼ぶのは、キリスト教が中国に伝わった際、キリスト教徒の集まりを「教えを学ぶ組織」と考えたからで、建物としての教会を指す言葉は教堂(jiàotáng)だそうです。


 英語の「チャーチ」も中国語の「教会」も、建物ではなく、聖霊に導かれて学び続ける人々の集まりであると言えるのです。


 繰り返しになりますが、1年前、私たちはリノベーションを終えた礼拝堂に戻ってきました。しかし、建物が新しくなっただけでは、その集まりは新しくなりません。集まる一人一人の意識が変わらなければ、結局何も変わららず、不平不満が募るばかりです。自分はイエス様に愛され、聖霊に導かれ、学び続けることで変われるのだと知り、神様のみ手に自分を委ねる時、キリスト者は成長し、その教会は本当に新しくなるのです。


 今日の説教題は「聖なる人々」です。「聖なる」という言葉を聞くと、完璧な人、罪のない人、特別な人を思い浮かべるかもしれません。しかし、聖書が語る「聖なる人々」とは、聖霊によって聖書を学び、研究や探究を続ける心を与えられた人々のことです。


 恐れの中に閉じこもっていた弟子たちが聖霊によって立ち上がり、語り始めたように、互いに理解できなかった人々が、聖霊によって一つの体として結ばれたように、聖霊は、私たちを“学び続ける者”へと造り変えます。そして、学び続け、祈り続ける者たちの集まりこそが「教会」、つまり主に呼び集められた人々なのです。


 ペンテコステは教会の誕生日であると同時に、学びの始まりの日でもあります。繰り返すようですが、聖霊に委ねていれば私たちは自動的に成長できる、などということは決してありません。聖霊なる神は私たちを謙虚に「学ぶ者」へと導き、互いに聴き合い、理解し合い、一つの体として歩むように整えてくださる霊です。「この世界をつくられ、私たちを愛し導いてくださる神様」について教わるが必要です。教会こそそれが可能な場所なのです。




ペンテコステ
エル グレコ(
1597年)プラド美術館
聖霊の炎に照らされて驚く
イエスの母マリアと弟子たちが描かれています
ペンテコステを描いた有名な絵画は
イエスの母マリアが中心に描かれているものが多いようです
使徒言行録に使徒たちと共に「イエスの母マリア」が
心を一つにして祈り続けていたと記されています
マリアを教会の母のような存在として
イメージしたのでしょうね

0 件のコメント:

コメントを投稿